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三角猫の巣窟

三角猫の巣窟

大学生は読書をするほうがいい


第53回学生生活実態調査の概要報告によると、大学生の8割がネットや新聞でニュースを収集していて、53.1%が1日の読書時間がゼロで、勉強時間と読書時間の両方が減少しているそうである。2015年に信州大学の学長がスマホのスイッチを切って本を読んで友達と話して自分で考えろと言って話題になったりして、定期的に本を読まない若者が批判されているけれど、逆に若者からは本を読まない若者批判への批判返しも起きている。
大学生は勉強するために大学に入学したのだから本を読んだほうがよいというのは一般論として特に批判するものでもない。本を読まない若者に本を読むべきだと勧めるいわゆる常識的な説教に対して批判する人は読書の利点を十分に知らないから読書を批判しているのではないかと思うので、なぜ読書をするほうが良いのかを考えてみる。

●教養とはなにか

大学は学問的研究を通じて教養を身につける場所である。では教養とは何かというと、文部科学省のウェブページでは「教養とは、個人が社会とかかわり、経験を積み、体系的な知識や知恵を獲得する過程で身に付ける、ものの見方、考え方、価値観の総体ということができる。」と言っている。
教養とは単なる知識ではないという点が大学生の読書を考えるうえで重要である。大学生が社会に出るうえで、メンターになる人物は何かしらの価値観を持っている。大学教授は自分の価値観を学生と共有するために学生に自分の本を読ませて授業では伝えきれない部分を補うし、会社の社長は自分の政治経済の考え方を社員と共有するために社史や伝記や愛読書を新入社員に読ませるし、それが教養になる。

●なぜ読書するべきなのか

信州大学の学長にスマホやめて本を読めといわれて若者が反発したのは、それだけスマホとインターネットの利便性を教授しているということの表れだろう。この問題の考え方を単純にすると、スマホやインターネットは良いのか悪いのか、読書は良いのか悪いのかという二つの論点がある。スマホをやめて読書しろという信州大学の学長の言い方ではスマホが悪くて読書は良いと決めつけているので、スマホが良いものだと思っている若者から読書まで否定されたわけである。私はスマホにも読書にも良い点があると思うけれど、スマホの良い点はいまさら言うまでもないので、なぜ学生は読書をしたほうが良いのかを考えることにする。

・本は学術的な情報源になるがインターネットは情報源として信頼度が低い

知識を得るためにインターネットを利用する場合、ウェブサイト上の情報はソースが改変されたり削除されたりすることが頻繁に起きるがゆえに、情報源としてあまり信頼されていない。その一方で印刷したものはほとんど国会図書館に保存されているので、第三者に検証可能な証拠として残る。
論文を書く上で引用する際には必ず出典を明記しなければならないけれど、その引用元の記事がサーバーから削除されてて見つからないとか、ウィキペディアが編集されてて引用時とは内容が変わっているとかでは話にならないのである。大学生ならば卒業論文を書かなければならないし、先行研究をまったく参照せずに論文を書くのは無理だから、信用できる情報源や原典をどれだけ知っているかというのが論文の決め手になる。だからこそ各大学が自前の図書館を持っていて研究に役立てるための蔵書を充実させているわけで、卒業論文を書かなければならない大学生は本を読めと言われて当然である。
インターネットで情報を調べたほうが本を読むよりも早く情報を見つけられるのだから、インターネットから情報を得るほうが勉強がはかどるかというと必ずしもそうではない。WELQというキュレーションサイトが医学知識がない外注ライターを雇って低品質な医療記事を量産していたことが批判されたけれど、キュレーションサイトの医療記事を情報源にして勉強したり論文を発表したりする医学生がいたら危ないというのはスマホ肯定派でも理解できるだろう。じゃあ他の学問でもそういうことはやらないほうがいい。

・本は責任が明確なので間違いを訂正しやすい

本は出版社や作者が明記されているので責任がはっきりしている。もし論文を書いて自分の知識が間違っていたとわかった時は、引用をたどっていってどの作者のどの本の第何刷が問題だったのか原因をつきとめることができるし、間違いを訂正しやすい。情報源のエビデンスが必要になったときも、たとえ絶版本でも国会図書館には残っている。こうして製造業でパーツのロット単位で品質管理をするように、知識の品質を保てるようになる。
一方でインターネットの情報は署名がない記事が多いし、キュレーションサイトでコピペを書き換えてばれにくいように工作したりしていて、最終的な責任が誰にあるのか不明になっている。ネットで知識を得た場合はどのサイトに書いてあったのか思い出してURLをたどるのが難しくて、Googleの検索アルゴリズムは頻繁に変わるので情報源の記事を検索しても見つからないこともある。たとえ引用元記事のリンクをメモしたりブックマークに入れたりしていたとしても、情報源のサイトのURLが書き換わってしまって見つけられなくなることもある。2018年4月に国税庁のサイトがリニューアルしてほぼすべてのURLが変更されて個々のページが検索できなくなってブックマークも無効化された事件があったけれど、役所が運営するサイトでさえファインダビリティやアクセシビリティに問題があるのだから、技術的な問題で情報源をたどれなくなる可能性はどのサイトにもあるし、そうなると知識の責任の所在や正確さがわからなくなる。

・インターネットの知識や意見は体系的でない

インターネットで情報を検索するのは便利な反面、ウェブサイト上の記事はコンテンツを探しやすくするSEO上の都合でキーワードごとに細分化されているので、一つのトピックについての記事は長くてもせいぜい10ページ程度しかなく、サイトの構造的に包括的な情報が見つからないようになっている。その一方で、本には数百ページの情報量があり、その情報は作者の価値観で統一されている。この価値観の統一性が教養を得る上で重要なのである。ネットで拾ってつぎはぎした知識は体系的な知識ではないので、教養としてのものの見方、考え方、価値観の総体が身につかない。
たとえば韓国についての朝日新聞の記事、米軍基地についての右翼のブログ、慰安婦についてのウィキペディア記事、自民党の外交政策についてのまとめサイトの記事があっても、それぞれ価値感や編集基準がばらばらになり、断片的な情報を読んだところで一貫した価値観を形成しにくい。その一方で一冊の本でそのすべてのトピックついて書いていれば、それらのトピックは作者の価値観で統一されて語られているので、情報や思想を包括的に理解しやすくなるし、情報の正誤や作者のバイアスのかかり具合も検証しやすい。何かの技術について調べるにしても、たとえば性能重視のベテラン職人のブログ、コスパ重視の見習い職人のブログ、DIYを楽しめればいいという日曜大工お父さんのブログ、YouTuberがウケ狙いで作ってみたビデオといった技術水準も考え方もばらばらな人から情報を寄せ集めてもちゃんとした技術が身につかない。
一旦体系的な知識を身に付けた後ならインターネットで情報収集するのでもいいと私は思うけれど、体系的な知識が身につく前にインターネットで見つけた情報を知識の根幹にするのは危ない。反日教育をされた中国人のように、最初に学習した時に間違った知識やバイアスを刷り込まれると、誤解や洗脳から抜け出すのにかなり努力が必要になる。

・インターネットは短文が多いので長文読解能力と文章作成能力が落ちる

本を読まなくなってもインターネットでニュースやSNSの文章を大量に読んでいるという意見もある。しかしネット掲示板だとたかが数行の文章でさえ長文として敬遠されていて、長い文章を読む行為自体が嫌われている。大学入試だと長文読解というのがあるけれど、プリント一枚分の文章なんて長文でもなんでもなくて、文学を研究しようと思ったら小説や論文を何冊も読まないといけない。英語を使った仕事をしたいなら何十ページもある英語の契約書や現地の法律やMSDSが読めないと実務ができない。ツイッターやネット掲示板の数行の断片的な短文を大量に読んだところで、数百ページの文章の全体の構成やロジックを理解する能力は身につかない。
若者の読解力の低下は見えにくいけれど、文章を書く能力は目に見えて落ちている。長文を読んで構文を理解できないなら、長文を書くこともできなくなるのは当然である。シニア世代の個人ブログは情報量が多くて個性的なものが多くて、自分で撮った写真とか旅行の感想とかの情報が詰まっていて読み応えがあるけれど、若者の個人ブログだと改行を多用してスカスカで、文章よりも写真に一言添えてSNSにアップロードするのがメインになっている。うける、うざい、むかつくという思考を伴わない感情の発露は意見ではない。犬が吠え続けても人間並みの知能になれるわけでないように、脳を使わないまま感情を言語化してウェーイウェーイとわめいても思考能力は向上しない。

・読書で自己を相対化できる

本を読むということはその作者の意見や感性に向き合うということである。本の中には相手の言いたいことがすべて書かれていていつでも読み返せるし、実際の会話とは違って読者は本を読みながら考える時間がある。本の内容に共感するにしろ反感を持つにしろ、自分以外の人の意見を認めることで自分の意見を相対化して、自分が何を感じて何を考えているのかを客観的にとらえることができるようになる。
この作者はこう書いているけど自分はこう思うという自己を絶対化した主観的反応がまずあり、次に自分がこう思うことについて他の人はこう思うかもしれないという自己を相対化した客観視につながり、自分の意見に思い込みや矛盾があるかどうか自分で気づくようになる。若くて知識や判断力が乏しい頃は極端な思考に陥りがちだけれど、自己の相対化の繰り返しで絶対化した価値観を疑ってときほぐしていって、自己中心的で万能感に満ちた幼さを捨てて思考が洗練されていく。本を読みながら自己を相対化して、本に書かれている知識を自分がどうとらえるかという考え方を洗練させていく過程で教養を身につけることができる。

若者がブログやツイッターでしばしば問題発言をして批判されて炎上するけれど、自分の意見が正しいと思い込んでいて、自分の意見が他の人にどう思われてどういう反応をもたらすか理解していない。まとめサイトには「報告者がキチ」というタグもある。つまりは自分を客観視できておらず、実際に批判されるまで自分の意見がおかしくてキチガイじみた主張をしていることに気づいておらず、批判されても自分が論理的・道徳的に間違っていると素直に認めずにさらに問題発言を繰り返して炎上する事態になる。若者がスマホを使いこなせているならSNSで炎上してアカウントを消して逃亡する事態など起きないはずである。

・読書で時間を相対化できる

本は原稿を書いてから出版するまでにタイムラグがあるので、必然的に最新情報は本には載らない。インターネットのほうが圧倒的に情報が早い。大部分の情報はまずインターネットで速報が流れて、翌日新聞に載って、次の日にテレビが情報バラエティ番組で特集して、一年後に本が出版される。本を読む必要がないと主張する人はこのインターネットの情報の早さを根拠にすることがある。現代はVUCA時代で最新のテクノロジーにキャッチアップしていかないとすぐ時代遅れになるので、最新情報を取り入れていく姿勢は大事である。
しかし情報の早さは教養の条件ではない。検証不十分な飛ばし記事もあるし、意図的に誰かを貶めるフェイクニュースもごろごろあるので、早く手に入った情報が必ずしも優れているわけではない。インターネット検索では最近の情報が検索結果の上部に出てきて古い情報は検索結果に出てきにくいので、技術上必然的に時間的なバイアスがかかっていることになる。そのバイアスから抜け出すために、インターネット検索以外の情報源として本が役に立つ。

ものの見方、考え方、価値観というのは一朝一夕に見につくものではない。だからこそ大学では4年間を勉強に充てていてそれでも短いけれど、大学を就職予備校としかとらえていない人は無駄な時間とさえみなしている。昔の人は現代とは違う時間のとらえ方をしていて、自分一人で真実を見つけようとはしていない。古代ギリシャの哲学者はソクラテス、プラトン、アリストテレスと思想が受け継がれていって知識を体系化して思想を洗練させている。何かを理解したり、真実を見つけたりするのは本来はそれだけ時間がかかることで、大学でのたった4年の勉強ではこの世界の森羅万象や人間の文明のほんの少しの断片を理解することしかできない。
現代社会の政治経済についてならまだ自分の体験で理解を補えるけれど、現代しか見ない人は必然的に現代的価値観に縛られる。現代社会で行われていることが正しいか間違っているかというのは結果が出ていないし、そこで常に経済成長やら出世争いやらの競争に晒されているせっかちな現代人が早く手柄をあげようとして結論を急ぐと危ない。共産主義が正しいんだと信じて大失敗したり、原発はクリーンエネルギーなのだと原子力推進したら事故が起きて大失敗したりしているけれど、人間の寿命に合わせて短期間で早急に物事を考えるとそのぶん失敗しやすくなる。現代から距離を置いて冷静に観察しようとしても未来は知りようがないので、過去を知って現代を相対化するしかない。今と一年前とかのちょっと昔を比べてもしょうがないのでコンドラチェフ循環とかの数十年のスパンで社会の変化を見ることで現代がどういう方向に向かおうとしているのかがわかるけれど、さらに昔の動画も写真もなかった過去の時代を知るには本を読むしかない。本は人類の貴重な遺産で、過去へタイムスリップする装置である。
「書読めば昔の人はなかりけりみな今もあるわが友にして」という本居宣長の短歌があって、ここでいう書(ふみ)は本ではなくて和歌のことのようだけれど、本として考えてもよい。あらゆる時代のあらゆる国で本を書き残してきた人たちのすべての言葉を友達からの助言として自分の人生を充実させたり、社会を発展させたりするのに役立てることができるというのはすばらしいではないか。

・小説で育つ感性がある

五感としては視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚があるけれど、たいていの芸術は視覚と聴覚に特化している。絵画は視覚、音楽は聴覚、映画や演劇は視覚と聴覚。さて小説はどうかというと、視覚的に認識する文字でもあり、頭の中で言葉が再生される音声でもあり、言葉が脳内に想起するイメージでもある。
芸術には作者の物のとらえ方の感性が含まれていて、ミラーニューロンの働きで読者はその感性を自分が経験したことのように感じる。芸術鑑賞は感性への刺激であり、刺激を受けないと感性が発達しない。幼児教育として塗り絵やリトミックをするのは様々な感性を発達させるためだし、人間にとって不要な感性というのはないので、当然言語芸術としての小説から得られる感性も重要である。ディスクレシアの人は本を読めないぶん朗読の録音を聞いて障害を補おうとして必死に努力しているというのに、五体満足な人が読書を拒否するのは識字能力の持ち腐れである。
単なる情報や知識には感性が含まれていないし脳内に情景を喚起しないので、小説の代替にはならない。例えば理系の論文とか決算発表のニュースとか、淡々と情報を伝えるだけで冗談も皮肉も比喩も何もない個性のない文章をいくら読んでも言語的感性は培われない。同様に本をまったく読まずにSNSに短文をつぶやいている人は言語的感性が未熟なので、そういう人の文章をネットで読んでも感性は培われない。少しずつ感性を育てないとどんな芸術も理解できるようにはならない。最近はスマホでYouTubeばかり見て小説どころか漫画さえ読めない子供もいるらしくて、動画は文章よりもわかりやすくて便利という子供の主張はその通りだけれど、それでは言語による抽象的な思考能力は育たない。

・読書が教養をはかる尺度になる

初対面の人に何の本が好きかと聞けば、その人の宗教、右寄り左寄り、趣味といった情報がだいたいわかる。あるトピックについて議論するときに読んだ本を聞けば、お互いがどれだけ知識があるのかもわかりやすい。あの古典を読んでいるならこの程度の知識はあるだろうという目安ができるので、本1冊を知識のチャンクとして数えやすくなるわけである。
インターネットには古典サイトというようなものがないので各自が同じサイトを見て共通の知識を持っているとは限らないし、ウェブサイトのレイアウトはサイトごとに違うので1ページの情報量がどのくらいなのかがはっきりしない。たくさんネットサーフィンして知識が豊富だという人がいたとしても、その情報源が正確な情報を提供しているかどうかもはっきりしないようなら教養の尺度としては頼りない。

●反読書主義者の主張

明治大学教授の齋藤孝の「本を読まない人たちが知らない人生」という東洋経済の記事も批判されていて、どのコメントにも内容に関係なくbad評価がついていた。インターネットを本の代替物や上位互換としてとらえる人なら別に読書を否定する理由もないはずだけれど、5ちゃんねるでは読書を否定する意見が少なくなかった。そういう人を仮に反読書主義者と呼ぶことにする。5ちゃんねるに以下のような読書批判や小説批判があったので、反読書主義者の主張に対して反論しておく。

・小説はただの娯楽。

私の反論:小説は娯楽だから役に立たないという意見を言っている人は、音楽やゲームやスポーツやグルメやペット飼育などのあらゆる娯楽は役に立たないから一切娯楽を楽しまないで機械のように仕事だけして生きているのだろうか。娯楽が役に立たないという人はいくら仕事をしてもストレスがたまらなくて娯楽でストレスを発散する必要がない超人なんだろうか。猫に小判、豚に真珠、馬の耳に念仏という言葉があるように、どんなものでも価値がわからない人にとっては役に立たないわけで、その場合はものに価値がないのではなく、価値がわからない人だけに価値がない。
娯楽としての価値があるならそれで充分存在価値があるし、読書に娯楽以上の価値を見出している人もいる。読書が共感する力を高めて社会的な能力も向上させたり、認知低下が遅くなってアルツハイマーになる可能性が低くなることが読書をすると健康によい理由というライフハッカーの記事に書いてある。

・他人の妄想に付き合う暇があったら資格を取ったほうがまし。

私の反論:トロイの遺跡は妄想扱いされていたけれどシュリーマンが妄想をたどって調べてみたら実在したし、有人飛行は科学的に不可能だと批判されたけれど空を飛べたらいいなと妄想したライト兄弟が飛んで見せたし、宇宙旅行はジュール・ヴェルヌの『月世界旅行』という妄想が最初にあって1世紀後に科学技術が妄想に追いついて人類が月に行ったし、妄想が多いほど社会は進歩する可能性がある。資格が必要な業務は知識が固定されてルーチンワーク化しているのでそこから新しい発明はでてこない。他人の妄想に付き合う暇があったら自分で妄想するほうがましとは言わずに資格取ったほうがましと言うあたりがいかにも堅実な小市民的な発想で、兄さんには夢がないね。

・本読んで経験できたような気になってるのはどうかと思う。

私の反論:そもそも人間にはミラーニューロンがあるので他人に共感できる。読書も映画鑑賞もスポーツ観戦もポルノ鑑賞も、他人への共感があるからこそ見ている人が自分で経験したように感動したり興奮したりするわけで、共感を否定するなら娯楽全般が成立しない。本を読んでも経験できた気にならないとしたら、発達障害で共感能力が著しく欠如していているか、あるいはサイコパスで、そっちのほうが問題である。

・読書しているやつは理屈っぽい。

私の反論:理屈っぽいというのが道理が通っているという意味ならそれは誉め言葉で読書批判にならないので、この人はこじつけという意味で言っているのだろう。しかし読書とすると理屈っぽくなるという研究データはない。仮に非論理的なこじつけを言う人がいたとしても論破すればいいわけで、読書をしない理由にはならない。理屈でさえない曖昧な印象しか言えないのは読書以前にこの人に問題があって、他人の意見のロジックを理解できず反論もできないからこじつけだと感じているのかもしれない。

・社会人になると小説は時間の無駄だと思う。

私の反論:人体のしくみはまだ研究途中なので、何かを無駄なものとして切り捨てるのは危ない。たとえば虫垂はいらないものとして切除されていたけど免疫に役立っていることが最近になってわかった。人間は豊かな言語を持ったがゆえに別個体と情報共有できるようになって、世代を超えて情報を蓄積して文明を築けるようになって地球を支配するようになったのだから、言語は人間が社会生活をする上で必要不可欠な能力である。
小説は仕事や金儲けに役に立たないから無駄だというような拝金主義的な考え方は危ない。小説を読まない人の脳はどうなるのか、小説が存在しない社会になったらどういう悪影響がでるのかもわからないうちに小説を無駄といえる根拠がない。小説は社会批判としての役割も含むし、同じ言語の民族や集団の意思形成にも寄与している。だからこそ基本的人権として思想や言論の自由が保障されているし、検閲も禁止されている。多民族国家ではルーツを確認してアイデンティティを形成するために小説は重要な役割を果たしているけれど、日本人は自分を民族として意識していないようで、小説を時間の無駄だと言う人を度々見かける。小説が時間の無駄だと思う人は個人的に小説を読まなければよいだけで、他人が小説を読むことを否定してはいけない。

・作り話なんか読んでると余計バカになる。読む価値のある書物は技術書・専門書・学術書だけ。

私の反論:こういうことは文系学問に理解がない理系の人がしばしば言うけれど、難しい技術書を読んでいるから僕はすごいんだぞとうぬぼれている態度が見える。この人のように目先の勉強や仕事だけ合理的にうまくやって大局観が欠けている人を小利口という。そもそも文明が作り話の神話や宗教を基にしてできているので、作り話をバカとして否定するなら人類を否定することになる。神武天皇という作り話に基づいて天皇を中心にした国家が出来上がったし、歌舞伎や落語という作り話が日本の伝統芸能である。国家や民族や宗教のルーツを作り話としてバカにして否定すると、国や時代によっては不敬罪で殺される。たとえ科学的に不合理な文化や宗教だったとしても、相手と付き合うためには相手の文化を理解しないといけない。政治家はマニフェストで嘘をつくし、恋人は妊娠したと嘘をつくし、宗教家は奇跡を起こしたと嘘をつくし、世の中は様々な作り話で満ちていて、現実的な対処をするには作り話を理解する必要がある。人間はマニュアル通りに動いているわけではないので、技術書を読んでも交渉相手の嘘を見抜けるようにはならないし、専門書を読んでも女性の嘘泣きを理解できるようにはならないし、学術書を読んでもオウム真理教の危険性を判断できるようにはならない。
理系の人は会社で冷遇されているというけれど、いくら技術力があろうが人の感情を理解しようとしない魅力がない人についていこうと思う人はいなくて当然である。理系の男性は女性にもてないというけれど、共感能力が乏しくてプライドが高くて平気で人を見下すモラハラ気質の男性に惚れる女性がいなくて当然である。こういう人ほど小説を読むべきである。

●私の意見

私は小説だけでなく漫画も読むし、ゲームもするし、囲碁と麻雀もするし、クラシックもヒップホップも聞くし、ギターも弾くし、面白いと思うことはなんでもやる。面白いと思ったものの中で私の才能に合っていたのがたまたま文学だったので文学に他のものより時間を割いたけれど、文学を他のものより優れているものとして崇拝しているわけでもない。読書だけが教養ではないので、読書時間の多寡が問題だとも思わない。歌う人とか踊る人とか球蹴りする人とかいろいろな才能を持った人が各自面白いと思うことをやって、それで社会全体が面白くなればよい。
どこかの分野で才能を発揮した人は面白い体験をしていたり独自の思想を持っていたりするけれど、それを伝える手段としての本もある。私はレゲエで世界一のダンスホールクイーンになったJUNKOさんとご飯を食べて、JUNKOさんがコンテスト出場のためにぎりぎりでパスポートを取って初めてジャマイカに行ってPASSA PASSAで踊ったら言葉がわからなくても盛り上がってダンスに国境はないのだという話を聞いたことがあるけれど、たまたま私は同席する機会があっただけで普通は著名人に会ってじっくり話を聞くのは無理である。すべての著名人が自分の体験をブログで無料で詳細に語ってくれるわけでもないので、そういうときに本を出版したら作者も儲かるし大勢の読者が面白い話を聞けてウィンウィンになる。ノンフィクションでなくても著名人をモデルにした小説でも面白いかもしれない。小説だからしょせん他人の妄想で読む価値がないと決めつけずに、誰かの人生が描かれた本を読むことを自分の人生の一部に加えてもいいんじゃないのと思うのである。
そもそも大学生は何かの分野に興味があって大学に進学したのだから、その分野の第一人者の本を読むのが嫌でしょうがないというわけでもないだろう。教授から勧められた本を次に会うときまでに読んでくるようなやる気がある学生に対しては教授も熱心に教えてくれるようになる。社会人になったらなったで年上の相手の会話についていくための教養が必要になるし、ビジネスや投資のアイデアを見つけるためには自分の経験以上の幅広い知見が必要になる。大学を卒業したら本を読めとおせっかいな忠告をしてくれる人もいなくなるし、同じくらいの学力で切磋琢磨できる友人もいなくなるし、就職すると業務知識を得るのが最優先になって読書時間がとれなくなって視野も狭くなりがちになる。暇があって環境にも恵まれている大学生の時に本を読まずにいつ本を読むというのだ。本を読むことに明確なメリットはあるのにデメリットはあまりないのだから、学生は学校の図書館を使って本くらい読めばいいじゃんというのが私の意見である。
勉強であれ趣味であれ自分の好きな分野の第一人者が書いた本を読むことさえ否定する人がいるとは思えないけれど、それでも読書を否定する人がいるとしたらそういう人はどうしようもない。論語でいう朽木は雕る可からずというやつで、いくら大学が教育機関だといっても学ぶ姿勢を持たない学生に何かを教えることはできない。本から教養を得ることを全否定するようなひねくれた人に何を言っても無駄なので、そういう人は放っておくしかない。

2018/5/6更新 三角猫
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(=‘ω‘ =)ニャー


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